毎日が母曜日

3児の母の「ぞうかあさん」が綴る、日々の育児で思うこと。

迷惑な親子

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。

ある時、ぞうかあさんの末っ子が電車の中で大泣きしたことがありました。
よりにもよって、快速電車の中で、次の駅まで15分以上あったんです。
すぐに駅に着くようだったら、目的の駅でなかったとしても、泣いている子どもを連れて途中下車して、体制を整えられます。
(逃げられます)

でも、その時は逃げられませんでした。

早く駅に着いてほしい。

気だけ焦っても、電車は止まってくれるわけでも、早く走ってくれるわけでもありません。

泣く子どもを必死であやして、小さくなりながら周囲に頭を下げていました。

それから、

どこかにワープしたい気持ちになったり、

子どもの泣き声を吸い取ってくれる掃除機のようなものがほしいなんて思ったり、

子どもの泣き声を小さくしてくれる、拡張器と真逆の道具ってないのだろうかなどと妄想したり、

変わらない現状、身動きも取りにくい中で、役立たずの妄想が心に浮かんだりしました。

幸い、近くに座っていた初老の女性がとっても温かい方で、たいへん救われたのです。

「あらあら、元気な泣き声だこと」

その女性があやしてくれたりしたのですが、娘は泣き止むどころか、反抗するように泣き声が大きくなってしまいました。

同じ車両に乗っていた数十人の人に「迷惑な親子」だと思われていたことでしょう。

私だけでなく、子どもが公共の場所で泣いたり、かんしゃくを起こして泣き叫んだりして困ったお母さんはたくさんいるでしょうね。


ため息をつかれたり、
チッと舌打ちされたり、
冷たい視線を送られたり、
悪態をつけられたり、

迷惑被っています、と言動に表す人もいます。

「迷惑な親子」と自分を肯定してしまうと、もう罪人のような気分です。

それは、「迷惑をかけてはいけない」という道徳のような教えがあるせいでしょうか?

でも、それってどうでしょうか?

生きているということは、多少の差があれど他人に迷惑をかけていませんか。

迷惑をかけずに生きてきた人がいるでしょうか。

ぞうかあさんは、赤ちゃん時代に夜泣きが激しくて、母をはじめとして家族と近所の人に迷惑をかけていました。
記憶にありませんが、生まれて日も浅い頃から迷惑な子だったでしょうね。

もしくは、どこかでぞうかあさんのことを嫌いな人がいるとしたら、その人にとっては目障りで、存在自体が迷惑でしょうね。

それでも、私たちの「生」は続いていきます。

「生」の中の、日々の人との関わりの中で「迷惑」が消えることはありません。

それなら、「迷惑」にも意味があるはずです。

迷惑をかけたからこそ、人の温かみに触れることができます。

迷惑をかけたからこそ、自分の現状を見つめ直すことだってできます。

そういう見方もできませんか。


育ててくれた母に迷惑をかけた分、
今度は子どもも育てて、迷惑を引き受ける。

子どもを育てながら周りの人に迷惑をかけた分、
後日、迷惑をかけた人に会ったら優しく受け止める。

迷惑の巡回を悪としないで、取り扱いたいです。

人との関わりの中で迷惑が存在するのは、一人で生きていない証であり、人と人とを結びつける橋でもあります。

もしも、「迷惑をかけたくない」「迷惑を被りたくない」というならば、国境を作って鎖国するように、自分と他者との間を施錠するしかありません。
そして、一人だけの王国で暮らす以外ないでしょう。

電車の中で子どもが大泣き事件の後、自分の力不足を感じたり、子どもの言動に困り果てたり、どっと疲れて帰路の足取りも重くなってしまいました。
その時は、本当に一人だけで王国に暮らしたい気分でした。

でも、一人の王国で人との関わりが断たれて、失うものもありませんか?

愛、恩恵という人からのギフトも失われませんか?

迷惑というのは、愛と恩恵と同じなんです。

ただ、迷惑だけ危険物で取り扱いに注意が必要なだけです。

だから、思います。
迷惑をかけても大丈夫です。
迷惑を引き受けてもらえたら、
今度は、自分が迷惑を引き受ければいいだけです。

「迷惑かけて、すみません」
「至らない自分で、すみません」
「力不足で、すみません」

「迷惑を引き受けてくれて、ありがとう」
「頼りない自分を導いてくれて、ありがとう」
「弱い自分を支えてくれて、ありがとう」

人は弱く頼りない存在です。
一人では生きていけないんです。
だから、必然として迷惑があるんです。
人と人との橋に強化のために。

でも、こんなこともあります。
自分が迷惑をかけてしまった時に、どんなに謝っても、許してもらえないことだってあります。
自分の迷惑の取り扱い方が誤っていたのかもしれません。
それとも、相手の心の器の問題なのかもしれません。
そういうことだってあります。
その人との関わりの橋が壊れてしまうかもしれませんが、それはそれでしかたありません。
また、別の人との間に橋をかければいいだけです。

人は迷惑をかけて、かけられて、人との共存を学んで生きています。
子どもを持ち、子どもの迷惑行為が起きた時に、お母さんとして社会でどう人と関わるのか、新たな橋をかける必要があるんです。

電車で近くに座っていたおばさんに、ぞうかあさんは迷惑を温かく引き受けてもらえた、次はぞうかあさんの番なんです。


ありがとう、お母さんな私。

今日も一日、「お母さん」を頑張ったあなたは素晴らしい。

自分のために、「ありがとう」。

今日の「ありがとう」が、明日の気持ちの晴れにつながるように。