毎日が母曜日

3児の母の「ぞうかあさん」が綴る、日々の育児で思うこと。

子どもの病気とお母さんの苦悩

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。


2歳の末っ子の風邪が一向に良くなりません。
咳がコンコン、もう2週間近くになりました。
痰が絡んだり、鼻水で鼻の通りが悪くて不快なのが原因なのか、機嫌を損ねたり、かんしゃくを起こしやすかったり。

子どもに限らず、大人でも、病気せずに元気でいれることはとても嬉しいことです。
でも、病気にも意味があるので、受け入れていく方が楽なこともあります。

それとね、気づいた事もあります。
子どもが病気になったその後に、とても面白い現象が起こるんです。
今までできなかったことが急にできるようになったり、我慢を覚えることができたり、心身に成長を感じることができます。

それを見ていると、お母さんも同じような気がするんです。

お母さんをやっていると、八方塞がりになったり、頑張る気力がなくなってしまうことがあります。
頑張ってきた体が悲鳴をあげて、寝込んでしまうようなことも起きてきます。

苦しい、
辛い、
どうしたらいいかわからない、
もう頑張れない、

そんな行き止まりを感じてしまうことがありませんか。

まるで、暗くて深い穴に落ちてしまったような、

なかなか出口が見つからない迷路に迷い込んでしまったような、

そんな喜ばしくない状況が起きた時って、どーんと落ちてしまいます。

だけど、実はそれってとてもラッキーなことなんです。

それを不幸だと思わないでほしいです。

話に起承転結があるように、お母さんのドラマにも転ぶことが必要なだけです。
転んでから始まる新しい物語があること、

転んだからこそ自分軸がしっかりしたお母さんになれること、

転んだきっかけで始まった新しい人との付き合いがあること、

そんな素敵なドラマが始まる前触れだと思っていてください。


どんなお母さんにもドラマがあります。

それは、みんなが光り輝く階段を笑いながら登ってきた話じゃないんです。

深い穴に突き落とされて、辛い思いをしたからこそ、温かい気持ちを学ぶことができます。

難しい迷路に迷い込んで、目を研ぎ澄ましたからこそ、見えた生き方があります。

もしも、暗く深い穴の中で泣いていても、

もしも、迷路で迷って焦っていても、

それがずっとではありません。

必ず、話の展開が変わって、お母さん人生の名場面が動き出します。

だから、自分の心持ちをニュートラルに保っていましょう。

人を批判したり、
環境を嘆いたり、
子どもに期待し過ぎたり、
そんなことをしなくても大丈夫です。

お母さんみんなに、素敵なドラマがありますように。

幸せのリセット

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。


育児が一段落したら、「やりたいこと」がたくさんありました。

ゆっくり温泉に入りたいなあ。

時間を気にせず、友達とお茶したり、食事したり、飲みに行きたいなあ。

お気に入りのお店で自分のための買い物がしたいなあ。

好きな作家さんの本をじっくり読みたいなあ。


やりたいことを想像していると、なんだか幸せな気持ちになってきます。

今すぐには無理でも、近い将来遠くない未来にやりたい、自分なりの幸せの種を持っていました。

でも、実際はちょっと違っていました。

子どもと向き合って育児にかかりっきりになることが日常化して、

家の中で時間といつもにらめっこして暮らしていたら、

空っぽになってしまった自分がいたんです。


子どもが思いの外長く寝てくれて、ぽかっと空いた時間、
本でも読めたのにね、
気になっていた所の掃除をしてしまいました。

子どもがプレイルームでお姉ちゃんと一緒に長く遊べるようになって、
その隙に自分の買い物もできたのにね、
子どものものや夕ごはんの買い物で終わりました。


あれ、
私は何がやりたいんだろう?
何がほしいんだろう?


友達と久しぶりにおしゃべりを楽しんでいて、ふっと気づいたりするんです。

あれ、
私は、何が好きなんだろう?
何に興味があるんだろう?
生きていく目標ってなんだろう?


自分には何も無いような、葉が1枚も残っていない弱々しい小さな木のようでした。

いままで、
夜中に何度も起きて、長く寝れなかったり、

ごはんを温かいままゆっくり食べ終えることができなかったり、

一人でトイレに入って用を足せなかったり、

そんな些細なこともできなかったんです。


4時間でも続けて眠れたことが有り難くて、

なんとかごはんが食べれるだけで、空腹でいるよりはずいぶんマシで、

トイレの間に子どもがお話しながらでも待っていられるようになっただけで、

たったそれだけでも、充分でした。
そんな些細なことで満足できるようになっていました。


写真に収まるような、目に見える幸せ、

数字で表せるような、頭で測れる幸せ、

万人に共感してもらえる幸せだけが、幸せではありません。

育児で踏ん張った自分に起きたのは、幸せのリセットでした。

葉が全て落ちた冬の木のような、いろいろなものが落ちた自分でした。


花咲かぬ木にも、
実らぬ木にも、
葉のない丸坊主の木にも、
地下に下ろした見えない根っこがあります。

どんな自分であっても、素の自分を認める事ができていれば、自分という木の根っこがあります。

その根っこを大事にしていれば、またいつの日か自分色の花も実もなります。


過去の自分と比べたり、人と比べたりしなくていいんです。

今すぐにでなくてもいい、急がなくてもいいんです。

自分という根っこがあれば、自分だけの幸せの花を、自分を満たせる実をつけることができます。

たとえ、今が何にも持たない丸坊主の木だったとしても。

それが、ずっとではありません。

根っこに栄養を与えるように、素の自分を認めて大切に。


ありがとう、お母さんな私。

今日も一日、「お母さん」を頑張ったあなたは素晴らしい。

自分のために、「ありがとう」。

今日の「ありがとう」が、明日の気持ちの晴れにつながるように。

育児にお手本はない

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。

育児の大変さが認識されて、最近は「頑張らなくていいんだよ」というメッセージもたくさんあります。

頑張って、頑張って、
でもうまくいかなくて自分が嫌いになるくらいなら、頑張らなくていいんだよ。

ぞうかあさんも、そう思います。


先日も、こんなメッセージを見ました。

要約すると、
「育児に家事に仕事、全部きっちり頑張って、子どもを怒るくらいなら、育児は適当でいい、家事はやらなくていい、子どもと一緒に笑っていよう」
というメッセージでした。

笑顔を忘れているお母さんには、良薬かもしれません。

その方は著名人です。
お仕事頑張っているので、家事はやらなければよかった、と話してありました。
その上でのアドバイスが、
ごはんは作らず、お総菜買ってくればいい。
洗濯できなかったら、汚ない服でも構わない。
洗濯できないものは捨てていい。
掃除しなくて家が汚くたっていい。

というものでした。

でも、きっちり仕事をして、子どもを育てるために稼いでいた力強いお母さんです。


ただ、みんなには当てはまらないです。
育児書通りに育児がいかないのと同じですね。

お母さんとしての経歴がある人なら、自分へのアドバイスになるかは直ぐ判ってしまいます。

その方の暮らしと環境が自分とは違うことが想像できるからです。

料理は出来合いのお惣菜でいいけど、掃除しないのは嫌で、家が汚いのがストレスになる、というお母さんもいます。

家事に手を抜きたいけど、一緒に暮らしている家族(お姑さんなど)がいる場合は手が抜けないお母さんもいると思います。

育児を優先したいから、仕事を変えるというお母さんもいます。

ぞうかあさんの場合、料理は優先順位が高いんです。
その時間が唯一のクリエイティブだからです。
自分の表現だからです。


その人のその暮らしも、毎日の育児も、日々に訪れる出来事も、そこで感じる気持ちも、誰のものでもないその人のものです。

その人のアドバイスは、その人自身の暮らしの指標であって、私達のアドバイスになるかは分からないのです。

著名人、成功している人、小児科のお医者さまや小学校の先生、そういう人からのアドバイスは興味深いです。

でも、
アドバイスが自分の育児に役立つかというと、料理番組のごはんを実際に自分が作れるか分からないのと同じです。

お母さんとしての暮らしの主役は自分自身です。

そして、その主役をどう演じたいのかは自分の気持ちで決めればいいんです。

他の人のアドバイスで、演じたくない自分の役をしなくていいんです。


仕事も頑張りたい。

おいしいごはんを作りたい。

子どもに服を作ってあげたい。

子どものアレルギーを治せるように食事に気を配りたい。

きれいでおしゃれなお家に住んでいたい。


お母さんによって抱く気持ちだって様々です。

そういう欲する思いが自分であり、その思いを実現することがお母さんの幸せに繋がります。

お母さんが幸せであれば、自然に子どもと笑顔で過ごせます。

怒りたくなる感情は、結局満たされないお母さんの気持ちが積もり積もって発生するんですから。

家事をやらなければ、育児を頑張らずに適当にしていれば、笑顔でいれるとは限りません。

他人からのアドバイスよりも、自分の気持ちに向き合うことの方が笑顔への近道です。
優先順位を決めるのも、取捨選択も、限界の線も、自分の気持ちが第一優先なんです。

だから、

お母さんの理想もいらない。
育児の見本もいらない。

あなたの気持ちが、あなたに一番似合うお母さんを創り上げます。

その自分オリジナルのお母さんの創造こそが、お母さんの笑顔の元なんです。


ありがとう、お母さんな私。

今日も一日、「お母さん」を頑張ったあなたは素晴らしい。

自分のために、「ありがとう」。

今日の「ありがとう」が、明日の気持ちの晴れにつながるように。

迷惑な親子

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。

ある時、ぞうかあさんの末っ子が電車の中で大泣きしたことがありました。
よりにもよって、快速電車の中で、次の駅まで15分以上あったんです。
すぐに駅に着くようだったら、目的の駅でなかったとしても、泣いている子どもを連れて途中下車して、体制を整えられます。
(逃げられます)

でも、その時は逃げられませんでした。

早く駅に着いてほしい。

気だけ焦っても、電車は止まってくれるわけでも、早く走ってくれるわけでもありません。

泣く子どもを必死であやして、小さくなりながら周囲に頭を下げていました。

それから、

どこかにワープしたい気持ちになったり、

子どもの泣き声を吸い取ってくれる掃除機のようなものがほしいなんて思ったり、

子どもの泣き声を小さくしてくれる、拡張器と真逆の道具ってないのだろうかなどと妄想したり、

変わらない現状、身動きも取りにくい中で、役立たずの妄想が心に浮かんだりしました。

幸い、近くに座っていた初老の女性がとっても温かい方で、たいへん救われたのです。

「あらあら、元気な泣き声だこと」

その女性があやしてくれたりしたのですが、娘は泣き止むどころか、反抗するように泣き声が大きくなってしまいました。

同じ車両に乗っていた数十人の人に「迷惑な親子」だと思われていたことでしょう。

私だけでなく、子どもが公共の場所で泣いたり、かんしゃくを起こして泣き叫んだりして困ったお母さんはたくさんいるでしょうね。


ため息をつかれたり、
チッと舌打ちされたり、
冷たい視線を送られたり、
悪態をつけられたり、

迷惑被っています、と言動に表す人もいます。

「迷惑な親子」と自分を肯定してしまうと、もう罪人のような気分です。

それは、「迷惑をかけてはいけない」という道徳のような教えがあるせいでしょうか?

でも、それってどうでしょうか?

生きているということは、多少の差があれど他人に迷惑をかけていませんか。

迷惑をかけずに生きてきた人がいるでしょうか。

ぞうかあさんは、赤ちゃん時代に夜泣きが激しくて、母をはじめとして家族と近所の人に迷惑をかけていました。
記憶にありませんが、生まれて日も浅い頃から迷惑な子だったでしょうね。

もしくは、どこかでぞうかあさんのことを嫌いな人がいるとしたら、その人にとっては目障りで、存在自体が迷惑でしょうね。

それでも、私たちの「生」は続いていきます。

「生」の中の、日々の人との関わりの中で「迷惑」が消えることはありません。

それなら、「迷惑」にも意味があるはずです。

迷惑をかけたからこそ、人の温かみに触れることができます。

迷惑をかけたからこそ、自分の現状を見つめ直すことだってできます。

そういう見方もできませんか。


育ててくれた母に迷惑をかけた分、
今度は子どもも育てて、迷惑を引き受ける。

子どもを育てながら周りの人に迷惑をかけた分、
後日、迷惑をかけた人に会ったら優しく受け止める。

迷惑の巡回を悪としないで、取り扱いたいです。

人との関わりの中で迷惑が存在するのは、一人で生きていない証であり、人と人とを結びつける橋でもあります。

もしも、「迷惑をかけたくない」「迷惑を被りたくない」というならば、国境を作って鎖国するように、自分と他者との間を施錠するしかありません。
そして、一人だけの王国で暮らす以外ないでしょう。

電車の中で子どもが大泣き事件の後、自分の力不足を感じたり、子どもの言動に困り果てたり、どっと疲れて帰路の足取りも重くなってしまいました。
その時は、本当に一人だけで王国に暮らしたい気分でした。

でも、一人の王国で人との関わりが断たれて、失うものもありませんか?

愛、恩恵という人からのギフトも失われませんか?

迷惑というのは、愛と恩恵と同じなんです。

ただ、迷惑だけ危険物で取り扱いに注意が必要なだけです。

だから、思います。
迷惑をかけても大丈夫です。
迷惑を引き受けてもらえたら、
今度は、自分が迷惑を引き受ければいいだけです。

「迷惑かけて、すみません」
「至らない自分で、すみません」
「力不足で、すみません」

「迷惑を引き受けてくれて、ありがとう」
「頼りない自分を導いてくれて、ありがとう」
「弱い自分を支えてくれて、ありがとう」

人は弱く頼りない存在です。
一人では生きていけないんです。
だから、必然として迷惑があるんです。
人と人との橋に強化のために。

でも、こんなこともあります。
自分が迷惑をかけてしまった時に、どんなに謝っても、許してもらえないことだってあります。
自分の迷惑の取り扱い方が誤っていたのかもしれません。
それとも、相手の心の器の問題なのかもしれません。
そういうことだってあります。
その人との関わりの橋が壊れてしまうかもしれませんが、それはそれでしかたありません。
また、別の人との間に橋をかければいいだけです。

人は迷惑をかけて、かけられて、人との共存を学んで生きています。
子どもを持ち、子どもの迷惑行為が起きた時に、お母さんとして社会でどう人と関わるのか、新たな橋をかける必要があるんです。

電車で近くに座っていたおばさんに、ぞうかあさんは迷惑を温かく引き受けてもらえた、次はぞうかあさんの番なんです。


ありがとう、お母さんな私。

今日も一日、「お母さん」を頑張ったあなたは素晴らしい。

自分のために、「ありがとう」。

今日の「ありがとう」が、明日の気持ちの晴れにつながるように。

加齢を恐れずに

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。


アンチエイジング
という言葉が苦手です。

「加齢に抵抗する」という、
自然な時間の流れをせき止めているような、流れを逆流しようとしているような、強情な執着心を感じてしまうからです。

実際、世の中は、変わらないことを良しとする傾向にあるようです。

「産後まだ数ヶ月なのに、産後とは思えない体型(スリム)」

「40代に見えない、20代のような女性」

「劣化」

そんな言葉をよく見かけます。


歳を重ねて変わること、

経験を通して変化すること、

それは本来なら人生の面白さのはずなのに、怖いものなんでしょうか?
悪いことなんでしょうか?

そんな呪縛があると、年齢を理由に制限をかける癖がついてしまいます。

変わることを拒む気持ちは、恐れからです。
未知の世界に足を踏み入れて、そこの住人になる不安を払拭したい、
時間に流されて行き着いた新しい場所を否定する、
そんな心の抵抗です。

例えば、
女性の場合、妊娠出産に年齢が重要なのは事実です。
卵子が劣化する」という言葉を聞いたことのない人はいないでしょう。
真実だとしても、それは呪いのような言葉で、苦しみます。
遊園地にお化け屋敷を作るような感じです。
怖がりさんは困ってしまいます。
呪いをもろともしない勇気か鈍感さが必要になってきます。

例えば、
産後ダイエットが話題になります。
妊娠出産経験者の女性は、妊娠出産で身体を酷使しています。その後育児が続くわけです。
身体が体重を増やすのは、女性の命を労うために必要なことではないのでしょうか。
それは、自然がくれた女性への慈悲であり、愛だと思います。

太ったっていいんですよ。


歳を重ねて変わること、
経験を通して変化すること、
それを恐いものとして扱いたくはないです。


高齢だと、妊娠出産が難しいかもしれない」

「子どもがいると働きづらいかもしれない」

「年齢が上がると、転職できないかもしれない」

そんな恐怖心を持たないでください。

自分で心に刻んだ負の制限が、未知の素敵な世界の扉に鍵をかけてしまいます。

ぞうかあさんの友達には、子どもを産む夢を諦めず、43歳で自然妊娠
、自然分娩(お医者さまに反対されながら)をしたJさんがいます。

その上をいく、47歳で自然妊娠した知人のKさんもいます。

50歳を目前に、長年勤めた職場を退職し、異種業に転職した友人がいます。

また、娘さんの進学に伴う引っ越しで、長年住んだ土地を離れ、仕事を辞め、新天地で職探しをする40代半ばの友人もいます。

そんな彼女達から、制限のかかった言葉を聞くことがありません。

彼女達が持っているのは、加齢を操る力であり、それは言うならば「ハンドルエイジング」です。


実際は、

誕生日が来て、「あー、また歳取ってしまったな」と感じたり、

仕事を探していて、募集に年齢制限が明記されていたり、

体調が気になるお年頃になったり、

ということはあります。

そういう場合は、
実年齢の他に、「チャレンジ年齢」があっていいんです。
チャレンジ精神の土台になるんであれば、「私は今29歳」という自分を後押ししてくれるのに適当な「自分を自由にしてくれる年齢」を作ればいいんです。

そして、
「若い方がいい」のような雰囲気で、尻込みせずに、進む原動力にしましょう。

自分の歳を忘れてしまうくらい、夢中になることを楽しみ
自分の誕生日を忘れてしまうくらい、他のお祝いを持ち、

楽しみと祝福の層が厚く重なる人生を作っていきたいです。

それに、過去には未知だったであろう素敵な世界をいくつも知っている、その歴史の実年齢を恥じることはありません。

アンチエイジング」に囚われてシワを気にしながら笑うより、「ハンドルエイジング」な彼女達のように、人生を高らかな笑い声で満たしていきたいです。


「変わってしまった」ではなく、いつでも「変われる」んです。

大丈夫です。
あなたにもあります。
新しい素敵な世界が。
その世界の扉を開ける手が。

あなたは最高のお母さん

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。


仕事もお母さんも全部頑張っている時に、なかなか状況が良くならない時があります。

悪いことが重なることもあります。

仕事でミスをしてしまい、気持ちが悶々してしまったり、

家事をうまく回すことができずにてんてこ舞いな状況に陥ったり、

子どもも学校で問題を抱えてしまったり、

旦那さんが仕事で忙しくて、アテにならなかったり、

お母さん友達のいざこざに巻き込まれたり、

生きていると、そんなウェルカムではないことが起きてしまうことがあります。

頑張っても上手くいかない、
頑張っても空回りばかり、

そんな時は、
もう頑張って前に進む気力がなくなってしまいます。

どこから頑張れがいいのか分からなくなってしまいます。


気力も体力も、運さえも最低な時があります。
しぼんでシワシワになってしまった風船の気持ちがよく分かります。

でもね、
一つだけ最高なところがあります。

あなたは、「最高のお母さん」だということです。

あなたの子どもにとっては、あなたが最高のお母さんです。

あなたを超える最高の存在はいません。


「いるだけでいい」という最低の基準を満たしていれば、それだけで最高のお母さんなんです。

夕ごはんが作れなくて、買って来たお惣菜が食卓に並んでも、

下の子の面倒をみていて、上の子に構ってあげられなくても、

旦那さんと喧嘩しても、

人付き合いが上手くいかなくても、

仕事でトラブルを抱えていても、

自分を最低だと蔑むことはありません。

自分には、「最高にな存在」である居場所があります。
それは、子どものそばにいるあなただけの場所でもあります。

子どものそばという「最高の場所」で、
子どもの唯一のお母さんという「最高の存在」であることを確信しましょう。

そこがあなたの軸ですよ。

忘れないでくださいね。

軸がずれたら、どんなに性能のいいコンパスも丸い円を書けません。

最高のお母さんを軸にして、最高の場所で、きれいな円を描きましょう。

今日は昨日よりも大きな円を、

明日は今日よりも大きな円を、

最高のお母さんの美しい円を描きましょう。

水面に落ちる小さな水滴で波紋が広がっていくように、丸い円を描きましょう。
お母さんの自分軸ががしっかりしていれば、大きく強い波紋が広がります。
同じ水面で起きた波紋があっても、気にならないくらいに。



最高があるからこそ、最低だってあるんだと思った方がいいです。


ありがとう、お母さんな私。

今日も一日、「お母さん」を頑張ったあなたは素晴らしい。

自分のために、「ありがとう」。

今日の「ありがとう」が、明日の気持ちの晴れにつながるように。

育児の世界

こんにちは。

3人の子象の母さん「ぞうかあさん」です。


出産が終わった時のことです。
ぞうかあさんは、
「世界が開かれた」
そんな風に感じました。

それで、産後の興奮もあって、病室で眠れませんでした。
産後で休息を取る必要があることを頭で分かっていても、気持ちが高ぶってしまっていました。

産後に感じた「開かれた世界」は、寒い朝の霧で覆われた風景が広がっているような世界でした。
霧で全貌が見えないさま、
寒さで身が縮こまるさま、
始まりを感じるまだ弱い太陽の光。

開かれたばかりの世界は、
まだ未知の育児に不安を感じて、萎縮してしまいそうな頼りない母親の自分に相応しい世界だったのです。


ずいぶん昔の話になりますが、なぜか鮮明に覚えていることがあります。

たぶん10歳くらいで女性ホルモンの分泌が多くなった頃だったんだと思います。
そういう、特別な状況の時だったんでしょう。

お風呂の湯船に浸かりながら、なんだかとっても不安になって、生きていくことが億劫に感じました。

自分は大人になれるのだろうか。

例えば、胸が膨らんできて、大人の女性に変わることができるのだろうか。

大人の女性になって、赤ちゃんができるのだろうか。

赤ちゃんを産んで、お母さんになれるんだろうか。

そんな、遠い未来のことまで想像して、途方も無い旅路に尻込みしてしまったのです。

大人にならずに子どもでいることを続けたいような気持ちにもなりました。

湯気で真っ白な浴室の湯船の中にいる10歳くらいの私は、産後でお母さんになった時と同じような心境だったのです。

もしも時間が操れる術を持っていたら、あの新米のお母さんの頃の自分には育児の世界を、
あの10歳くらいの子どもの自分には大人の女性の世界を、
少しだけ語ってあげられるのにと思うのでした。


お母さんという役割を引き受けて、知らなかった世界が開かれたのは、世界が深くなる感じでした。

旅で世界の広さが分かるように、育児で世界の深さが分かります。

深く深く海に潜って、見たことのない深海魚を見るように、自分の中に深く存在している見たことのない自分を見る時間でもあります。

水深の違いで、同じ海でも違う生物が存在し、違う世界が広がっているところも、育児を通して世界の次元が変わるような感覚に似ています。

もちろん、
光り輝く幸福だけの世界ではありません。
暗く苦労の多い世界というわけでもありません。


育児の世界で、
何を見つけるのか。
何を感じるのか。
どう彩るのか。

それは、お母さん次第です。

それをどう語るのかも、人それぞれです。

ぞうかあさんが育児の世界の住人になって17年、その世界を語りたいと考えたのには理由があります。

育児の世界が社会の端っこに追いやられてしまうような場所であってほしくはない。

育児の世界の住人になりたいと思ってもらえる場所であってほしい。

育児の世界の扉が目の前に開かれようとしている時に、迷わず歩を進めることができる場所であってほしい。

住人が尊厳を持って穏やかに暮らせる世界であってほしい。

そのために、育児の世界の住人としてできることは何だろう。

まずは、育児の世界で光を放つ住人であろう。

希望を届ける、育児の世界の語り手でありたい。

ぞうかあさんの新たな挑戦です。